#67【中学校社会科 歴史ノート】明治政府への不満と反乱

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てぃ~ちゃ~Mです

今回は#67【中学校社会科 歴史】「明治政府への不満と反乱」を紹介します

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ノート用まとめ

1、政治の理想と現実
公議世論を理想とするが実際は藩閥政治=「薩長土肥」が実権を握る
2、民衆の不満
平民・・・徴兵、学制、地租改正
士族・・・徴兵、廃刀令、秩禄処分
3、士族の反乱
① 実力による反乱・・・佐賀の乱、神風連の乱、萩の乱
   →西南戦争~1877年、西郷隆盛らが挙兵→政府軍の勝利

② 言論による反乱・・・板垣退助などによる自由民権運動
           ~藩閥政府に対し国民の自由と権利を要求
・民選議院設立の建白書
・国会期成同盟      ⇒国会開設要求
  ↓
国会開設の勅諭(1881年)~10年後に国会を開くことを約束

勉強復習、予習、テスト勉強などの参考にどうぞ(^_^)

▼歴史記事▼

本記事の内容: 明治政府に対して民衆の不満の様子がわかる

政治の理想と現実

公議世論を理想とするが実際は藩閥政治で「薩長土肥」が実権を握る・・・

難しいですね

言葉の意味を一つずつ見ていくと

公議世論とは広く会議を行い、世の中の意見を聞くということ

どこかで聞いたことがありますよね

そうです。五箇条の御誓文です

(参考:▲【中学校社会科 歴史ノート】明治時代 明治維新▲

一つ目の文章にありましたよね。

天皇中心の国づくりを行うと、海外や大名に宣言したあの言葉です

天皇が神に誓うということで、他国の宣言とは少し意味が違いました

簡単に言うと、明治政府は世の中の意見を聞き会議をして新し国を作っていくと宣言していたということです

ですが実際は違いました

藩閥政治という言葉で上の文章に書きましたが

藩閥とはなにか?

藩はわかりますよね?江戸時代の都道府県みたいなものです。

閥とは、ある特定の目的を持つ集まり。簡単に言うと「仲良しのグループ」です。

足して言うと、ある藩による仲良しグループができていたということです

その藩が薩摩、長州、土佐、肥前の4つです

薩摩は現在でいうと鹿児島県、長州は山口県、土佐は高知県、肥前は佐賀や長崎あたりです。

これらの4つの藩の出身者が、明治政府の役人として多かったということです。

ですが、こういった藩による政治でもまとまっていたかというとそうではありません

前回紹介しましたが、「征韓論」という言葉がありました。これは武力で朝鮮を支配するという考えです。

(参考:▲【中学校社会科 歴史ノート】明治時代の文化の変化と外交▲

旧士族は自分たちの活路は海外への戦いだと考えていたので征韓論には賛成です

西郷隆盛

板垣退助

この考えに、西郷隆盛や板垣退助なども賛成でしたが、欧米視察から帰ってきた大久保利通などは征韓論には反対していて国力の充実が先だと唱えていました。

大久保利通

結果、征韓論は通ることはなく、西郷隆盛は政界から去ります(下野=げやしたといいます)。

ですが、西郷隆盛はもともと陸軍の大将であり、明治維新の立役者の一人です。地域からの信頼も若者からの人望も厚い人物でした。これを政界は危険視したのです。

旧士族は征韓論に賛成し、薩摩の人々も西郷隆盛には賛成していますが、西郷本人は、政治界を去った後はゆっくりと余生を過ごしたかったようです。

ですが、西郷隆盛が指導していた学生たちが、薩摩を偵察中の政府のスパイをとらえて拷問し、弾薬庫を襲ってしまいました。

これにより、西郷隆盛は選択をせまられます。自分が指導している学生を政府に引き渡せば話は済むが、生徒が殺されてしまうかもしれないからそれはできない。政府を敵に回すこともしたくはない。

でも、地域性や、指導していた人たちに言われたこともあり仕方なく兵を出すことを決めます。

士族の反乱

そこには、士族らの政府に対する不満、民衆の不満が現れたといってもおかしくはないでしょう。ですが、反対の仕方は色々あります。

自分の思いに従わないものには力づくで聞かせる。他には、何度も話すことで話して聞かせる。

これらの違いは命にもかかわってきますし、日本の今後にも大きくかかわってきます。

実力による反乱

佐賀の乱~1874年 佐賀県

神風連の乱~1876年 熊本県

萩の乱~1876年 山口県

西南戦争~1877年、鹿児島県にて西郷隆盛らが挙兵するも政府軍の勝利で終わる

図説・幕末戊辰西南戦争―決定版 (歴史群像シリーズ)

言論による反乱

板垣退助などによる自由民権運動~藩閥政府に対し国民の自由と権利を要求

もちろん一筋縄ではいかない

  • 民選議院設立の建白書(1874年)
  • 国会期成同盟(1880年)

民選議院とは、国民から選んだ話し合いの場のこと。今でいう国会のことだ。国会を開いてくれとお願い書を出したということ。

板垣退助は土佐で立志と呼ばれるグループを組織して自由民権運動をすすめ、それが大阪で愛国社という組織になり全国組織となったのが国会期成同盟。

これらすべては「国会を開け」という運動になる。これにも政府は弾圧をかけます。

新聞紙条例や集会条例で、政府に反対する文章や出版物は規制され、集会に関してもだめだと、集まって話することも規制されてしまう。だが、役人の不正疑惑などもあり(開拓使払い下げ問題)民衆の動きは抑えられず、政府も約束します。

国会開設の勅諭(1881年)で、10年後に国会を開くことを約束。勅諭とは天皇の言葉という意味。

憲法草案と政党結成と運動の激化

民間の思想

中江兆民・・・(東洋のルソー)が立憲君主制を説く。社会契約論の翻訳。

植木枝盛・・・東洋大日本国国憲案(憲法の私案)

五日市憲法草案・・・国民の自由権などが盛り込まれた憲法の私案

政党の結成

自由党・・・党首:板垣退助。成立年:1881年。支持層:地主や自作農

フランス流の急進主義で一院制、国民主権、普通選挙を掲げる

立憲改進党・・・党首:大隈重信。成立年:1882年。支持層:実業家など

イギリス流の政党政治で二院制、普通選挙を掲げる。(岩倉具視はドイツを見習い、君主の強い国家づくりを目指していたので、大隈重信は反対され政界をさる)

運動の激化

農民が自由党を中心に実力行動にでる。そのころ、農村は西南戦争による増税で生活に苦しい人たちが多くいた。そんな中、様々な事件が起こる

1882年 福島事件

1883年 高田事件

1884年 群馬事件

1884年 秩父事件 ~ 埼玉県で起こった最大規模の反乱。農民ら1万人が役所を占領し軍隊まで乗り出した。軍隊により制圧されるが、自由党は解散させられ、保安条例などで反乱の疑いがあると東京から追い出す条例が作られたりした。

こういった激化事件も憲法が出ることで収束していくことになる

「大河の一滴」の映画監督「神山征二郎」が秩父事件を題材にした映画を作っています↓↓参考までに

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まとめ

明治になっての政治の理想と現実のギャップに実力で反抗する結果になった西南戦争。言論による反抗が自由民権運動。国会を開くという国民の思いは天皇に約束させるという行動までになる。日本が民主主義を切り開いていく運動がこういった時代には繰り広げられていたということです。

問題

頻出問題①

廃藩置県後の新しい官制で、薩長土肥の出身者が参議や各省の高い役職の大部分を独占した政府を何というか。空欄に当てはまる漢字2字を答えなさい。

【○○政府】

答えhttp://teacherceo-masajirusi.com/2020/02/10/post-1869/

頻出問題②

自由民権運動のきっかけとなった文書でもあり、板垣退助らが政府に対して最初に国民から選んだ人たちでの話合いの場を要望した文書を何というか答えなさい。

答えhttp://teacherceo-masajirusi.com/2020/02/10/post-1872/

頻出問題③

1877年に鹿児島士族が起した,西郷隆盛を首領とする大規模な反乱を何というか答えなさい。

答えhttp://teacherceo-masajirusi.com/2020/02/10/post-1875/

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