こんにちは
てぃ~ちゃ~Mです
今回は#68【中学校社会科 歴史】「明治時代 大日本帝国憲法と帝国議会」を紹介します
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ノート用まとめ
- 憲法制定の準備
伊藤博文をヨーロッパへ派遣・・・ドイツ(プロイセン)の憲法を研究
華族制度・・・1884年華族令→貴族院
内閣制度・・・内閣総理大臣に伊藤博文。薩長が大臣に多い
憲法草案・・・伊藤博文が中心。井上毅、ドイツ人顧問
枢密院(藩閥)で憲法草案を審議・・・国民には秘密
- 大日本帝国憲法
1889年2月11日
欽定憲法
天皇主権・・・天皇が日本は統治。総理大臣を決め、軍隊を率いる統帥権をもつ
議会・・・貴族院と衆議院で法律の制定と予算の決定
国民の権利・・・臣民。自由は法律で制限される
- 制度
教育勅語・・・1890年発布。教育の国家統制。忠君愛国の道徳
地方自治体・・・地方議会は制限選挙。市長や府県知事は政府が任命
法律・・・刑法、商法、民法(戸主権~家長の権限が強い)
- 帝国議会
第1回衆議院議員選挙・・・1890年7月
制限選挙~選挙権は満25歳以上の男子で直接国税15円以上(人口の1.1%)
第1回帝国議会・・・1890年11月
貴族院~皇族、華族、勅撰議員
衆議院~300人中171人が民党(自由党、改進党)
藩閥政府との対立・・・軍備拡大VS減税
勉強復習、予習、テスト勉強などの参考にどうぞ(^_^)
▼歴史記事▼
本記事の内容:明治時代に制定された大日本帝国憲法のなかみと帝国議会までの流れがわかる
あなたは現在の日本のルールを知っていますか?
私たちが守らなければいけないルールとは「法律」です。
道路交通法や刑法、商法など様々ありますが、わたしたち一般の国民が守るのは法律です
でも、法律は何を基準に決められているのか?
かんたんに言うと「憲法」というおおもとのルールを基準に作られています
詳しくは公民の分野で説明はしていますが(参考▲憲法▲)
この「憲法」があるからみんなが守らないといけないルールが作られるということ
ルールが無いと危ないですもんね。
例えば、赤信号なのに車が止まらないとどうでしょうか?危ないですね。
お金をだまし取られたのに犯人には何の罪もなく野放しならばイヤですよね。
ルールを作らないと、危ないことや困ったことも出てくるのでルールを作っています。
でもルールを作る基準がないとルールも作れないです
今の日本のルール(法律)を作るための基準(憲法)は「日本国憲法」というものですが、以前は違いました。以前の憲法を説明します
大日本帝国憲法
国会を開くと政府が約束したことは覚えているでしょうか?(参考▲前回の記事▲)
国会開設の勅諭といって、天皇が約束するという形を取っています
国会とは、国の会議です
国の会議ではいろいろなルールを決めますから、ルールを作る基準ももちろん必要になってきます。そして、決め方も必要になってきますし、決める人も必要になってきます。
だから、その仕組みをまず作ることをすすめます
内閣制度
国会の開設を約束した政府は、近代国家には憲法が必ずいると考えたため、伊藤博文をヨーロッパに派遣しました
憲法や議会政治を学ぶためです
特に参考にしたのがドイツ(プロイセン)でした
ドイツは君主権の強い国だったのからです。皇帝の力が強いということです。
日本も天皇の権力を強めることが国づくりには必要だと考えていたということですね
天皇による政治だけど、天皇を助ける組織が必要だった。それまでも太政官制といって天皇を支える仕組みがあったが、作るのが内閣制度。
今までの仕組みを変えていくということで、内閣の初代リーダーが、初代内閣総理大臣の伊藤博文になります。
大臣には、薩摩藩から4人、長州藩から4人、土佐藩から1人、元幕臣が一人という構成。
天皇の相談や憲法を審議する機関として「枢密院」を設置し、皇族や華族(元は貴族や大名)議員を選ぶために「華族制度」をつくり、華族から議員を出し、話し合いのグループ(貴族院)を作ることとした。
話し合いのグループはもう一つある。これが、国民の代表者からなる衆議院になる。
でも、国民の代表者の話し合いの前に、秘密ですすんでいたのがルールを作るおおもとの決まり。そうです「憲法」です。
大日本帝国憲法
1889年2月11日に発布
これは、国民がみんなで作ったものではない。これは伊藤博文や井上毅、ドイツ人の顧問などで作成され、枢密院で審議されてできた憲法で、国民が国民のためにではなく、天皇が国民に与えるという形で出されたものである
このように君主が定める決まりを「欽定憲法(きんていけんぽう)」といいます
大日本帝国憲法は天皇主権で、現在の憲法とは違います(現在、日本国憲法は国民主権)。
天皇が日本は統治する。ということで天皇は神聖なわけですね。
だから、内閣総理大臣も天皇が決め、軍隊も率いる力も持っていました(統帥権)
帝国憲法物語 日本人が捨ててしまった贈り物議会
法律の制定や予算を決定する
貴族院・・・特権階級の皇族や華族からなる
衆議院・・・国民が選挙する
国民の権利
臣民(しんみん)と言い、天皇の支配を受ける民という意味を持っています。
兵役や納税の義務を負い、制限された自由が与えられていました。
補足
天皇制絶対主義の確立を基本にしているもので、藩閥政府は、選挙権も、予算審議権も、立法権も本来はなくそうとしていたが、自由民権運動によってこれらの権利は守られた。
憲法下の制度
法律と地方
法律(民法(家族制度・・・戸主兼で家父長の権限が強く、女性の地位が低い)や商法、刑法など)の整備もすすみ、地方自治体も市町村制になったが、議会や知事には政府の統制があり、市長や知事は政府が任命し、地方の議会は制限選挙で、現代のように誰でも選挙権が持てたわけではなかった。
教育勅語
1890年に出された、忠君愛国の道徳をとく、教育による国家統制。ご存じでしょうか?昔の日本の学校には黒板の上には天皇の写真が掲げられていました。今はありませんが。
帝国議会
帝国議会とは現代でいう国会にあたるもの。国民の代表者が話し合いの場を設けて、法律を作るというところ。
でも、議会を設ける前に、議会の代表者を決めなければなりません。そのために行うのが選挙
第1回衆議院議員総選挙
1890年7月実施。これは制限選挙で選挙権は限られた人にしか与えられていなかった。
選挙権・・・満25歳以上、男子のみ、直接国税15円以上(現在の月収で60~70万円程度。年収1,000万こえぐらいですね)
当時の人口の1.1%の人にしか選挙権がなかった。
第1回帝国議会
1890年11月実施。貴族院と衆議院の二院制
貴族院・・・皇族、華族、勅撰議員(天皇によってえらばれたという意味)
衆議院・・・自由党や改進党で171人これらの政党は民党といわれ、政府の方針とは反対の意見を主張していた。反対に政府の方針に賛成は吏党(りとう)。
対立
藩閥政府との対立
藩閥政府は富国強兵を掲げている。ということは強い軍隊を持つということ。軍備拡大を掲げている。ですが、軍隊を整えるにはお金がかかる。増税ですね。
民党は増税には反対していました。民衆の暮らしを先にということですね。こういった対立が続きますが、いろいろあります(後日説明します)。のちに、政党が政権を握る政党政治が実現した時期もあります。政府と政党の協力した時期ですね。1898年のころですが、大隈重信が首相になり、板垣退助を内務大臣とする政府でしたが、あまり長続きはしていませんが・・・
まとめ
国会開設の勅諭から、帝国議会という国会を開くまでに整えなければならなかったさまざまな課題があったし、民衆に広がる自由民権運動も活発になっていった。さまざまな制度が整えられるので、それを覚えるのが大変だが組織図などを理解すればそうは難しくない。
大日本帝国憲法下の関係図。
選挙の制限は覚えよう
問題
頻出問題①
山口の生まれ。吉田松陰に学び、倒幕運動に参加。のち明治憲法立案に当たった人物で、1885年には内閣制度を創設、初代総理大臣となった人物を答えなさい。
答えhttp://teacherceo-masajirusi.com/2020/02/12/post-1886/
頻出問題②
第1回衆議院議員選挙に関して以下の空欄に当てはまる数字を答えなさい。
「選挙権は、直接国税〇円以上を納める25歳以上の男子」
答えhttp://teacherceo-masajirusi.com/2020/02/12/post-1889/
頻出問題③
帝国議会は二院制を採用している。衆議院ともう一つは何か答えなさい。
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