こんにちは
てぃ~ちゃ~Mです
今回は#61【中学校社会科 歴史】江戸時代 開国とそれまでの幕府の対応 を紹介します
▼今回の動画はこちら▼
まとめ(ノート用)コピペどーぞ(^_^)
日本の開国
①黒船の来航
1853年 ペリーが浦賀に来航~開国要求(中国航路と捕鯨船の補給)
1854年 ペリーの再来日
②日米和親条約
・下田(静岡県)と函館(北海道)の開港
・アメリカ船に燃料・食料・水の補給
・下田にアメリカ領事を置く
③日米修好通商条約
大老の井伊直弼とアメリカ総領事ハリス
・5港を開港(函館、横浜、長崎、新潟、兵庫)
・関税自主権がない
・治外法権を認める
→以後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも条約を結ぶようになる(安政の5か国条約)
勉強復習、予習、テスト勉強などの参考にどうぞ(^_^)
▼歴史記事▼
本記事の内容: 開国までの幕府の対応と開国に関してがわかる
入試でもよく出る江戸時代
時代の概要と人物と政策と文化と順番を理解していればテストも怖くありません
国のあり方をめぐって
天保の改革
前回、天保の改革について紹介しました(前回の記事→▲天保の改革▲)
この改革はもう少し詳しく言うと、国のありかた(今後の進路)をどうしていくかを決めることでもありました
今後の進路とは?幕府と大名による連邦国家か、それとも、幕府に力を集めた中央集権国家かです
老中の水野忠邦を中心に行われた改革を振り返ってみると
- 上知令
- 株仲間の解散
- 人返し令
- 倹約令
これらの政策には幕府の体制強化の様子が見えます
上知令は、江戸や大阪周辺の大名の領地を幕府のものにするもの。
単純に幕府の財源を確保するための政策です。ですが、これらは反発にあいます。そりゃそうですよね。勝手に自分の土地を幕府のものにするといわれても「はい」とは言いにくいですよね
以下の2~4に関しては幕府が関係をきれいにしたかった人たちです
百姓に関しても、町人に関しても関りに距離を置くことで支配者と支配される側との関係を保ちたいという思いがありました。
これまでの改革の中で、ワイロや一揆、打ちこわしに関して、幕府の政策や政治に反発はたくさんありましたが、これらの関係を一旦きれいになくすことで幕府の強化につなげようとしました
そう、これらの政策の目的は「幕府の権力強化」が目的です
なぜそうまでして権力の強化を急いだかには理由があります
理由
結論から言うと、それまでの外国勢力の接近と国内の様子です
例えばロシアですが、通商を求めて、と以前書きましたが、その背景には清とロシアのやり取りがあります
ロシアはヨーロッパとの貿易をしていましたが、ロシアは清とも貿易をしています。
清、中国はそもそも「中華思想」という考え方があって、簡単に言うと、中国が世界の中心だという考えです。以前紹介した「後漢書東夷伝」という中国の歴史書には日本のことが紹介されていますが、「東の夷」と書いて「東の地域の野蛮な人たち」という意味を持っています。真ん中(中)以外は東西南北の地域は野蛮な地域という見方がありました。
中国は自分たちの国で必要なものは自分たちの国ですべて調達できる。貿易は相手の国からお願いされたからやっているだけ。というスタンスにつながります。
ロシアも清には金や銀が吸い取られていました。ロシアはヨーロッパに輸出する毛皮をとるために東部への進出をしていきますが、ロシアは広い。遠い旅は食糧がなくなります。そこで役に立ったのがアイヌの人たち。ロシアは彼らと交易をおこなっていました。
ですが、アイヌは松前藩の支配になっていきます。松前藩との通商になるのですが、そういったロシアの進出も幕府は警戒しています
また、イギリスはオランダ船を追って長崎湾へ侵入してきました(フェートン号事件1808年)その際、人質をとって、薪や水を要求してくる始末です
幕府の対応は異国船打払い令(1825年)に北方調査(近藤重蔵1798年択捉島/間宮林蔵1808年樺太間宮海峡)です
ですが、国内での幕府に対する反発はあちこちで発生します
1837年 大塩の乱
1839年 蛮社の獄
そういったなかでの天保の改革
大変なはずです
日本は、1842年には外国船への薪水給与令(遭難船に限り)もだし、外国への対応や、国内への対応も進めていますが、改革もうまくいかない。そんな日本にやってくるのがアメリカです
アメリカは以前から西部への開拓を進めていて太平洋岸までやってきた。そして、太平洋へ乗り出し、捕鯨船(ランプ用や機械の潤滑油としてクジラの油をとっていた。それ以外の肉などは捨てていた)や中国との貿易の寄港地として日本を開国させるよう要求を持ってきます
日本の外交
- 黒船の来航
- 日米和親条約
- 日米修好通商条約
黒船の来航
1853年、4席の軍艦を率いてペリーが浦賀沖に現れました。大統領の国書(手紙)をもって。
翌年の回答を約束に一旦日本を離れます。
国書の内容は
・漂流民の保護
・外国船への燃料や食料の供給
・貿易の開始
1854年、軍艦を増やして再来日し、横浜にて交渉
日米和親条約が結ばれますが、日本が一方的にしたがったのかというとそうではない
ペリーとの交渉役にあたったのが、昌平坂学問所の学者(林 復斎(はやし ふくさい) )でした。
儒学者であり、外国事情にも詳しかった(オランダ風説書)人物で、ペリーが武力による開国もあると脅すが、日本の海外漂流民への配慮や、外国船への燃料補給など説明し納得させる
一番のポイントが貿易の開始です
貿易で日本が警戒した理由が「アヘン戦争」
中国(清)とイギリスとの戦争だが、アヘン戦争のきっかけはイギリスによるアヘンの密輸。密輸した商船への清の取り締まりに対しイギリスが怒って戦争になった。
賠償金と香港がイギリス領になって、貿易港を開かされ開国させられました。
アメリカの貿易要求に関しても日本側は拒否し、貿易はできないということをアメリカに認めさせます
ですが、アメリカも寄港地の開港を求めてきます
そして、下田(静岡)と函館(北海道)の開港を約束します
こうして約束されたのが日米和親条約です
日米和親条約(1854年)
・下田と函館の開港
・アメリカ船に燃料や食料の補給
・下田にアメリカ領事を置く
下田という地形を見ればわかるのだが、静岡県の伊豆半島の端のほうに位置している
ここからアメリカ人は行動できる範囲が限られた条約になっている
開国という言葉で教科書などは終わらしているが、実際は、日本の一部、しかも、日本人とほぼ接触しにくい場所を選び、範囲を決めて、貿易は開始せず、外国船へは今までの対応と同様する。
日本が情報に閉ざされていたかというとそうではなく、黒船の来航も、アジアの様子も情報は持っていた。この日本の教育水準の高さを知っておこう。
特定の範囲で海外との接触をするということは鎖国体制にあっても変わらない。鎖国とは貿易統制、外交統制であって、決して日本が外界を拒絶したことではないということを知っておこう。
日米修好通商条約(1858年)
本当の開国ですね(通商の始まり)
1856年日本の下田にやってくるのがハリスです
ハリスは、中国(清)で起こっている、アロー戦争(清VSイギリス、フランスなど)を引き合いに交渉をしてきます。
対する交渉役は目付という役職の人物で岩瀬忠震(いわせただなり)。林 復斎の甥にあたります
当時日本でも、迫りくる諸外国に対してどのように対応するかがまとまらずにいた
一方が外国から学びいずれ外国の勢力に追いつこうという考え(開明派)と外国は打払えという考え(攘夷派)です
老中の堀田正睦(ほったまさよし)に対しても、岩瀬は、貿易を開始することで幕府の収入源にしようと提案しています。(老中の堀田の前が阿部正弘。この人物が岩瀬を外交担当に選んだ)
それにも理由があります。当時経済の中心は大坂。大阪には商品もお金もたくさん集まっていた。これを関東に持ってくるためには横浜を開港することが大切だと考えていたわけです。横浜を出島にして。
ハリスの目的は大阪での貿易だったが、岩瀬は止めたい。大阪が経済の中心になることと、京都が近い地域では攘夷運動(外国を打払う)がさかんだったこともあったので、ハリスは大坂と京都の開港をあきらめる
関税自主権や領事裁判権(治外法権)に関しても、不平等条約といわれるが、実際は関税の税率も低いわけではなく、領事裁判権も出島という限られた地域ならば、日本人との接触もないだろうということで、大きく問題になるようなことではなかった。
(アジアの中で、西欧列強からの植民地しなかったのは日本だけ。戦争をしてしまっていたらおそらく日本はもっと厳しい条約を結ぶことになっていただろう。)
だが、反対する大名もいた。朝廷に調印を求めようとしたが、条約反対派の働きかけもあり、朝廷からの許可は出なかった。老中の堀田はやめさせられ、井伊直弼が大老となる。
そのころ、アロー戦争が休戦になり、イギリスとフランスが日本に来るという連絡が入ってくる。井伊直弼は天皇の許可がないと条約はしないという考えであったが、岩瀬らは井伊直弼に「どうしようもなかったらアメリカがイギリスフランスの間に入って取り持つ代わりに調印してもいいか?」と井伊直弼から許可をもらうことで、ハリスとの間で調印を結ぶことになる。
そうしなければ外国勢が日本に来た場合、植民地化は避けられなかっただろう。
色々な人物の思いと、考え、時代背景と世の中が絡み合っての日米修好通商条約
内容
・5港の開港(函館、横浜、長崎、新潟、兵庫(神戸))
・関税自主権がない
・治外法権を認める(外国人の犯罪を自国の法律で裁けない)
岩瀬の思いとは裏腹に、以後、外国への攘夷運動が激しくなり、諸外国との戦争。関税も20%から5%に引き下げられる(1866年)という結果になってしまう
この結果、日米修好通商条約は不平等条約になってしまったのだ
まとめ
日本が無理やり結ばされたように感じる教科書の書き方もたくさんあるが、実際は、日本は、海外を学び、交渉を上手にこなす人材がいて、日本のことを一番に考え、外国の脅しにも屈せず、外交を上手くまとめようとした人物がたくさんいたということだ。
国内のコントロールも経済もすべてを担うのは幕府の力だけでは難しかったことがうかがえるが、幕府の中にこう言った有能な人材が多数いたことで、日本が海外の植民地化を防げた理由といっても過言ではないだろう
問題
頻出問題①
1854年、日本にペリーが来航し条約を結ぶが、この条約を何というか下から選んで答えなさい。
【 南京条約 日米和親条約 日米修好通商条約 】
答えhttp://teacherceo-masajirusi.com/2020/02/03/post-1670/
頻出問題②
1858年、日本にいたアメリカ総領事のハリスと結んだ条約を何というか以下から選んで答えなさい。
【 南京条約 日米和親条約 日米修好通商条約 】
答えhttp://teacherceo-masajirusi.com/2020/02/03/post-1674/
頻出問題③
日米修好通商条約によって新たに開かれた港ではないものを下から選んで答えなさい。
【 神奈川(横浜) 長崎 新潟 兵庫(神戸) 名古屋 】
コメント