こんにちは
てぃ~ちゃ~Mです
今回は#18として「律令国家を目指して 蘇我氏の滅亡 大化の改新」を紹介します
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①蘇我氏の滅亡と大化の改新
乙巳の変にて蘇我氏の滅亡。中大兄皇子と中臣鎌足
大化の改新・・・
元号(年号)を「大化」
645年
都の遷都(せんと)~難波宮
律令制度~律(刑法=法律)、令(行政法=命令)
改新の詔(646年)~公地公民(全国の土地・人民は国家のもの)
② 戦い関係
白村江の戦い・・・663年日本・(百済)×VS唐・新羅〇
壬申の乱・・・672年 天智天皇の死後、
大友皇子(弘文天皇)×VS大海人皇子(後の天武天皇)〇
天武天皇~天皇に権力を集中させ、 天皇中心の強い統一国家(日本へ)
勉強復習、予習、テスト勉強などの参考にどうぞ(^_^)
▼ 歴史記事 ▼
本記事の内容:聖徳太子の後の流れをつかむ
- 蘇我氏の滅亡
- 大化の改新って?
- 戦い関係
前回は聖徳太子のころを紹介しましたが、その後です。聖徳太子の後
律令国家という言葉も聞いたことのない人もいるかもしれませんが
「大化の改新」や中大兄皇子や中臣鎌足の頃の話になります
①蘇我氏の滅亡
聖徳太子の背景に居た豪族が蘇我氏でしたが
蘇我氏の関係をみると、蘇我馬子は前回で物部氏と争った人物です。その子の蝦夷(えみし)、蝦夷の子の蘇我入鹿(いるか)が関わってきます。
一部の豪族の力が集中することを恐れた中大兄皇子や中臣鎌足らによって蘇我氏はやっつけられてしまいます
その政治的な変革を「乙巳の変(いっしのへん)」といいます。645年の出来事です。
乙巳は干支を使った年の数え方です。「ネー、ウシ、トラ、ウー・・・」のやつです
この乙巳の変で蘇我氏の滅亡と言うことになります。あくまでも本家がですけどね。
入鹿を宮廷で暗殺し蝦夷は自宅で自害
首謀者が、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)です。
②大化の改新って?
大化の改新とは、大化の改新と言う出来事ではなく、様々な国の改革を指してまとめて大化の改新です。
内容
- 元号(年号)を「大化」
- 都の遷都(せんと)~難波宮
- 律令制度~律(刑法=法律)、令(行政法=命令)
- 改新の詔(646年)~公地公民
例えば「大化」が元号の始まりで現在が「令和」ですね
他に、「遷都」(せんと)という難しそうな言葉ですが、ひとむかし前に「せんとくん」というキャラクター(ご当地キャラ)が居たのをご存知でしょうか?令和の現在、私は存在は確認しておりませんが。
都を移すということです
遷都ですが、都の立地が悪い、病気がはやる、自然災害が多いなど、様々な不幸の原因は、天皇の政治にあるとも考えられていました。今後もいくつかの地域に都が移っていきますが○○時代は都は△△県にあるというぐらいは知っておきましょう
律令制度の前が、大和政権の頃に作られていった氏姓制度がありました。ですが、氏姓制度は一族のきずなが強いので、豪族の勢力拡大にもなりやすいということですね。
改新の詔、「詔」(みことのり)天皇の言葉として、いろいろ新しくしますよ、と伝えました。
何が?ですが、
「公地公民」です。
全国の土地、人民は全て国のモノ、天皇のモノなのだということを皆に伝えたわけです
③戦い関係
外国:白村江の戦い
(663年)というのがあり
日本・(百済) VS 唐・新羅になります。このころすでに百済は国としてはないのですが、残っている百済の人々と一緒に戦います
百済は660年に滅ぼされている。北部の高句麗も668年に滅ぼされる
この戦いで日本・百済は敗れて日本は朝鮮半島から撤退していくが、
大陸からの攻撃に備えて九州北部に防人(さきもり)として警備に当たったりしなければいけなくなった。この防人の役には交通費などはでません・自腹でのお出かけです。、山城を築くなどして防備には備えていました。
国内の争い
壬申の乱(672年)で中大兄皇子=天智天皇(てんじ)の子である大友皇子(弘文天皇)と天智天皇の弟 ~ 大海人皇子(後の天武天皇)の争いです。
大海人皇子は皇位継承でもめそうだったので出家して役人からは離れていましたが、真w里の期待もあったのでしょう。大友皇子をやっつけに行きますが、出会う前に大友皇子は自害します。
こののち、大海人皇子は天武天皇となって、天皇に権力を集中させる、天皇中心の強い統一国家「日本」へと変革させていきます。
このころから「日本」(にほん)の呼び名が使われだしているようです。
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