#56【中学校社会科 歴史ノート】江戸時代 寛政の改革 松平定信

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てぃ~ちゃ~Mです

今回は#56【中学校社会科 歴史】江戸時代 寛政の改革 松平定信を紹介します

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まとめ(ノート用)コピペどーぞ(^_^)

寛政の改革(1787年から1793年)

老中 松平定信の政治(白河藩の3代目藩主で徳川吉宗の孫)

1、 きびしい改革・・・質素倹約。享保の改革をまねる(徳川吉宗の改革)

2、囲米の制(かこいまい)・・・ききんに備えて米を蓄える

3、帰農令(きのうれい)・・・農民の都市への出稼ぎを禁止する

4、棄捐令(きえんれい)・・・旗本や御家人の借金帳消し

5、貧困対策・・・人足寄場(にんそくよせば)・・・職業訓練所 / 七分積金(しちぶつみきん)・・・積立金

統制の強化

1、寛政異学の禁・・・昌平坂学問所(湯島の聖堂)朱子学以外の学問を禁止する

2、風紀の統制・・・派手な衣服や浮世絵、作家を取り締まる

3、幕府批判の出版物を禁止

改革の失敗

役人だけでなく庶民にまで倹約を強要したこと、思想や学問の統制。将軍家の松平定信への信頼の低下や幕府内での対立、庶民の反発によって定信は失脚することになった。

「白河の 清きに魚も住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」

勉強復習、予習、テスト勉強などの参考にどうぞ(^_^)

▼歴史記事▼

本記事の内容: 江戸時代 松平定信による寛政の改革がわかる

入試でもよく出る江戸時代

時代の概要と人物と政策と文化と順番を理解していればテストも怖くありません

寛政の改革(1787年から1793年)

老中 松平定信の政治

松平定信

福島県

白河市

松平定信とは、白河藩の3代目藩主で徳川吉宗の孫にあたる

松平定信の改革の前の状況はというと

田沼意次の政治で武士の世界にもワイロやお金による出世があちこちであってあまり良い環境とは言えない

農村でも貧富の差が激しくなっていた。貨幣経済が浸透する農村での経営が上手くいかず貧しくなる農民も多かった

そのわりには耕作が放棄された土地や荒れ地が広がっていた、この頃に続出したききんで村から離れた農民は都市に大量に流入していて町が混乱していた。

寛政の改革はこのような様々な問題に向けての取り組みである。

  • きびしい改革・・・質素倹約。享保の改革をまねる(徳川吉宗の改革)
  • 囲米の制(かこいまい)・・・ききんに備えて米を蓄える
  • 帰農令(きのうれい)・・・農民の都市への出稼ぎを禁止する
  • 棄捐令(きえんれい)・・・旗本や御家人の借金帳消し
  • 貧困対策・・・人足寄場(にんそくよせば)・・・職業訓練所 / 七分積金(しちぶつみきん)・・・積立金

囲米の制

江戸時代に軍事上や不作があったときなどの対処として,または米価調節のために米をたくわえること。

米の価格が変化する一つの原因にもなった。

帰農令

以前の老中の田沼意次の政治では、商人中心の改革が行われた。だが、ワイロが横行し政治が乱れた。

農村においても貨幣経済が進んでいき、貧しくなる本百姓が出てきた。これらの農民が江戸への大量に住むようになったので、帰村や帰農をすすめるようになった。

また、他国への出稼ぎを制限して農作物の生産向上を目指した。同時に,ききんに備えて食料を蓄えるようにさせ,倹約なども進めた政策である

棄捐令

幕府が発令した武士への借金をなくす法令。広がる貨幣経済やサービス業の利用により武士の暮らしは借金が中心になっていた。高利貸しから借りた借金をなくすことで武士は一時的に救済されたが、そこから、次の借金がしにくくなっていった。消されないお金を貸す人はいませんからね。

人足寄場(にんそくよせば)

特定の住居を持たない人や仕事を持たない人たちに収容所を設けてそこで技術習得をさせた。大工関係や職人関係の技術習得を目指した

七分積金(しちぶつみきん)

町民救済のための積立金制度。非常時に使うお金をためておこうという仕組みです

統制の強化

  • 寛政異学の禁・・・昌平坂学問所(湯島の聖堂)朱子学以外の学問を禁止する
  • 風紀の統制・・・派手な衣服や浮世絵、作家を取り締まる
  • 幕府批判の出版物を禁止

朱子学を幕府の正当な学問とすることで、役人の採用にも朱子学を学んでいるものを採用するようになる。幕府関係の人以外でも、各藩や浪人など受け入れ態勢はたくさんあった。のちに、黒船がやってくるが、その時にも、有能な役人がそろっていたのもこの昌平坂学問所が貢献している。

改革の失敗

改革は6年ほどだが、役人だけでなく庶民にまで倹約を強要したこと、思想や学問の統制な。その他、経済・文化は停滞したこと、財政の安定化も、独占市場の解消も目立っての改善はなかった。

将軍家の松平定信への信頼の低下や幕府内での対立、庶民の反発によって定信は失脚することになった。

最後に松平定信の寛政の改革を風刺する狂歌を載せておきます

「白河の 清きに魚も住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」

白河藩主の松平定信の政治改革は正当でまっとうだが、すこし悪いことがあっても昔の田沼意次のやり方がよかったな~という意味の歌です

問題

頻出問題①

田沼意次以後、寛政の改革を行った中心人物を答えなさい

答えhttp://teacherceo-masajirusi.com/2020/01/25/post-1498/

頻出問題②

江戸時代に軍事上や不作があったときなどの対処として,または米価調節のために米をたくわえることを何というか下に当てはまる漢字1字答えなさい。

【〇米の制】

答えhttp://teacherceo-masajirusi.com/2020/01/25/post-1501/

頻出問題③

寛政異学の禁とはある学問を幕府の正当な学問とすることで、昌平坂学問所にてある学問以外を禁止したものである。その学問とは何か答えなさい

答えhttp://teacherceo-masajirusi.com/2020/01/25/post-1504/

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