#87【中学校社会科 歴史ノート】ベトナム戦争にからむ日本や世界の国々

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こんにちは

てぃ~ちゃ~Mです

今回は#87【中学校社会科 歴史】「ベトナム戦争にからむ日本や世界の国々」を紹介します

ノート用まとめ

ベトナム戦争(1965年~1975年)

1965年~アメリカの支援→軍事介入

1973年~ベトナム和平協定

1976年~ベトナムの南北統一・・・社会主義政権

韓国と日本

1965年~日韓基本条約・・・日本の経済援助と進出

中国と日本

1972年~日中共同声明

1978年~日中平和友好条約・・・ODAによる中国への経済援助

沖縄返還

1972年~沖縄の日本復帰・・・米軍の支配に対して祖国復帰運動

日本政府の方向性・・・非核三原則「持たず、作らず、持ち込ませず」

ヨーロッパの動き

EC~ヨーロッパ共同体(現在のEUの前身)

東ヨーロッパ・・・チェコスロバキア(1968年、プラハの春)/ポーランド(1980年、連帯)

勉強復習、予習、テスト勉強などの参考にどうぞ(^_^)

▼歴史記事▼

本記事の内容:ベトナム戦争にからむ日本や世界の国々の様子や変化がわかる

ベトナム戦争

アメリカ

この写真は有名な写真ですが、この写真が撮られたのが「ベトナム戦争」

この写真はピューリッツァー賞を撮った写真です

ピューリッツァー賞とは新聞や雑誌、作曲などの功績や影響を与えたものに与えられる賞です

アメリカでこれらの写真は影響を与えたという事です

インドシナ半島の話になりますが

現在のベトナム。インドシナ半島の東側(太平洋側)に位置している国です

かつて、フランスの植民地だったベトナムですが、第二次世界大戦で日本軍による進駐があった

当時、フランスの支配や日本の支配に対し抵抗した組織があります

それが、「ベトミン」ベトナム独立同盟会です

日本の降伏とともに、ベトナム民主共和国の樹立を宣言し社会主義国が東南アジアに誕生した

ですが、フランスはこれを良しとしません。ベトナムをフランスのものとするべく「ベトナム国」を樹立させます

これにより、フランスとベトミンの戦いになるのですが、フランスは勝てませんでした。

ここで一旦休戦になり選挙をもって北と南とで統一する予定だったのですがアメリカがやってきます

ホーチミンというベトミン(北ベトナム)の指導者が当選してしまうことを恐れたアメリカが、南ベトナム政府を支援し戦争になります

これがベトナム戦争です

アメリカと南ベトナム政府VS南ベトナムにいる抵抗組織(南ベトナム解放民族戦線)と北ベトナムという対立です

そもそもアメリカの介入はアメリカで当時はやっていたドミノからくる「ドミノ理論」というもので

ソ連、中国、朝鮮半島、インドシナ半島というかたちで次々と共産主義が広がっていってします。まるでドミノ倒しのように・・・

ということで、共産主義化を防ごうと南ベトナムを支援するのですが、お金を送っていると、南ベトナムの役人がアメリカのお金を自分たちで全部使っていました

お金じゃだめだということで軍隊の派遣に動きます

アメリカは楽勝ムードでベトナムに乗り込みます

当時の軍人の言葉で「ベトナムを石器時代に戻してやる」と意気込んでたようです

だから、マスコミやカメラマンを取材に来させて見せつけてやろうと考えていました

ですが結果は違いました

ベトナムでもゲリラ戦などで苦戦するのですが、アメリカ国内でも反戦運動などがあり結局は1965年の爆撃開始から始まり1973年でアメリカ軍は撤退します

結果1976年にベトナム社会主義共和国が成立します

このベトナム戦争には日本も関係はしてきます

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日本

アメリカと日本

日本政府はアメリカと1960年に新しい安全保障条約を結びます(新安保条約)

アメリカとの関係強化があります

これに対し国民は反対の意思を多くの人が示しましたが、衆議院では強行採決し、参議院での承認を経ずに自然成立してしまいました

当時の首相(岸信介)はアメリカとの批准書(条約の約束書)を交換し、内閣を総辞職します。

岸信介とアイゼンハワー

そんなアメリカとベトナム戦についての関係ですが

日本とベトナムとは直接的には戦ったりしていませんが、間接的に関係はしてきます

アメリカ軍はどこからベトナムへ向かったのか?

沖縄の基地があります

日本の近くの国からもアメリカ軍を助けるために軍隊を送った国があります

それが「韓国」

韓国と日本

日本と韓国とは仲がいいかというと、仲は良くない

「韓国併合」(参考▲ 韓国併合 ▲)があったからです。そこから国交はありません

アメリカの考えは、日本と韓国が仲直りをすればアメリカにとっても利益があるだろうという思いです

日本は韓国へ言いました「補償がしたい」と

韓国は「国民にではなく政府に対して補償しろ」

そこで「日韓基本条約」(1965年)を結び、日本の経済支援が進められるとともに、企業も韓国に進出するようになり国交の回復とともに経済協力が進められました

ですが、韓国はこれだけでは良しとしていません

韓国の日本大使館の前にはある像が置かれています

「従軍慰安婦」です。戦争によって傷ついたのは男性だけではなく多くの女性も心にも体にも傷を負いました

韓国の国民は現在も賠償を求めています

もう一つ。北朝鮮とは現在も国交は開かれていません。歩み寄りはあったり遠のいたりですね。

中国と日本

1972年にアメリカのニクソン大統領が中国を訪問しています。ここでいう中国とは「中華人民共和国」の中国です

ニクソン大統領と会談をしたのが、毛沢東国家主席と周恩来首相です

日本の首相は田中角栄でした。同年に中国との間で結ばれたのが「日中共同声明」。これにより日本と中国との国交は正常化することになりました

周恩来と田中角栄

1978年には「日中平和友好条約」が結ばれ、ODA(政府開発援助)による中国への経済協力もするようになりました

沖縄返還

サンフランシスコ平和条約締結後も、アメリカによる統治が続いていた沖縄

1960年に祖国復帰協議会が結成されました。住民による祖国復帰運動です

アメリカがベトナム戦争で沖縄の米軍基地を使っていたので、反戦運動とも結びつきました

当時の首相(佐藤栄作)はアメリカと沖縄返還協定(1971年)を結び1972年の5月に沖縄の本土復帰が実現しました

ですが、在日米軍の75%は日本に残り、沖縄の本島の15%が現在も米軍基地である

また、沖縄返還協定のときに、日本政府の核に関する方向性が示されます

非核三原則「持たず、作らず、持ち込ませず」です

ヨーロッパ

西ヨーロッパ

1967年に「EC」(ヨーロッパ共同体)の発足があります

これは、アメリカやソ連という大国に対し、発言力を高めようというヨーロッパにおける、人、モノ、金の自由化と市場統合を目指す動きから来ています

簡単に言うとアメリカやソ連に太刀打ち出来るよう、ヨーロッパでまとまろうという事です(後のEUですね→参考【中学校社会科 地理ノート】ヨーロッパ

東ヨーロッパでも変化が起こります

東ヨーロッパ

東ヨーロッパは社会主義国が多かったのを覚えていますか?

東ヨーロッパの国々では、ソ連に対する民主化の動きが高まりを見せました

1968年にはチェコスロバキアで自由を求める運動が盛んになったことで、首都プラハにソ連は軍隊を送り弾圧され(ワルシャワ条約機構の軍隊)、その後収束します

ポーランドでも1980年にワレサという人物が労働組合の「連帯」を中心に労働者の自主的な権利を認めさせようとする運動が起こりました

当時のポーランドでは自由な労働組合の運動は認められていない中での、労働者の自由を守る運動だった。

ポーランドも民主化運動が盛んになっていったという事です

問題

頻出問題①

統一の主導権をめぐって南北○○○○の勢力が対立する中でインドシナの共産化を恐れたアメリカが介入し南を支援したのに対し、北○○○○軍と南○○○○解放勢力が協力し、アメリカ軍・南○○○○政府軍と戦った戦争である。

○○に当てはまる語句を答えなさい

答えhttp://teacherceo-masajirusi.com/2019/08/02/post-2425/

頻出問題②

1965年6月に、日本と韓国との間で調印された条約。これにより日本は韓国を朝鮮半島の唯一の合法政府と認め、韓国との間に国交を樹立した。韓国併合条約など、戦前の諸条約の無効も確認した条約でもある。

この条約を以下から選んで適切なものを答えなさい

【 韓国併合条約  日韓保護条約  日韓基本条約  日朝修好条規 】

答えhttp://teacherceo-masajirusi.com/2019/08/02/post-2428/

頻出問題③

沖縄返還協定のときに、日本政府の核に関する方向性が示されます。「持たず、作らず、持ち込ませず」という○○○○○が衆議院で決議されました

文中の空欄に当てはまる語句を答えなさい

答えhttp://teacherceo-masajirusi.com/2019/08/02/post-2431/

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