#49【中学校社会科 歴史ノート】江戸時代 江戸幕府と体制

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てぃ~ちゃ~Mです

今回は#49【中学校社会科 歴史】江戸時代 江戸幕府と体制を紹介します

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まとめ(ノート用)コピペどーぞ(^_^)

1、徳川家康・・・三河(愛知県東部)の大名。1600年 関ヶ原の戦いで勝利

→1603年 征夷大将軍になり江戸に幕府を開く(江戸時代~1867年)

→豊臣氏のを1614年大坂冬の陣、1615年 大坂夏の陣で滅ぼす

徳川家・・・1家康、2秀忠、3家光、5家綱、8吉宗、14家茂、15慶喜

2、江戸時代の仕組み

3、幕府と藩~幕藩体制(中央集権的ではなく分権的体制)

幕府(将軍)・・・幕領として関東、中部、近畿と主要都市や鉱山支配。軍隊を持つ

藩・・・将軍から与えられる大名の領地と支配の仕組み(親藩、譜代、外様)

4、きまり・・・①武家諸法度~大名の統制、築城禁止、結婚禁止、参勤交代

        ②禁中並公家諸法度~天皇家、公家の統制

勉強復習、予習、テスト勉強などの参考にどうぞ(^_^)

▼歴史記事▼

本記事の内容: 江戸時代の初めごろの概要を知る

入試でもよく出る江戸時代

時代の概要と人物と政策と文化と順番を理解していればテストも怖くありません

江戸時代のはじまり

徳川家

覚えるのはこの人たち

家康(1)秀忠(2)家光(3)綱吉(5)吉宗(8)家茂(14)慶喜(15)

家康

慶喜

生い立ちと略歴

三河の大名で国人の家系に生まれる

覚えているでしょうか、桶狭間の戦い

織田信長と今川義元の戦いですが、その時に徳川家康は今川家で暮らしていました

人質として。それを奪還したのが今川義元で後々には今川家の重役についてもらおうと考えていました

ですが、桶狭間の戦いに敗れそれを機に家康も今川方とは関係を切りました

そののち、織田信長と手を結び勢力を拡大します

ですが織田信長が本能寺の変で倒れたことにより、信長の領地を自分のものにして一大名へと昇り詰めていきます

ですが、豊臣秀吉が関白になったことで頭を下げて秀吉の下につきます

秀吉の死

秀吉は死に際にこう残しています

「秀頼事 成り立ち候やうに この書付の衆として たのみ申し候 何事も 此のほかにはおもひのこす事なく候 かしく」(フランシスコ=パシオ談)

この遺言をそれぞれがどう受け止めたかが天下分け目の決戦につながる

同時に、秀吉は政治の進め方を五奉行と五大老(幕府の偉い武士たち)による合議制にしています

これは秀吉が、秀吉の子、秀頼の政権を安定させるために家康を取り込む作戦にしたと考えられている

遺言の食い違いからおこるのが関ケ原の戦い(1600年)

西軍の石田三成らVS東軍の家康ら

この戦いを徳川家康が制したことにより豊臣側についた大名たちの領地を没収し決定的になる

1603年には征夷大将軍になり、この将軍職を早々に子供へ譲ることによって世襲化を進め、実力よりも秩序を重んじる流れへと変えていった

だけど、もちろん実力でそれらを進めていきました

豊臣氏の滅亡

当時、一番力を持っているのがやっぱり天皇

天皇に近いところでお仕事をするのが貴族たちだが、秀吉は関白になったことで貴族的な力も手に入れた

だから、実質的に力を持っていたのは豊臣家だが、その支配力を奪っていった結果が大坂の陣になる

大阪冬の陣(1614年)で大阪城の外堀と内堀を埋めました。これも約束は外堀だけでしたが結果内堀も埋められてしまいました

大坂夏の陣(1615年)で大阪城は落城し、秀頼を倒したことで豊臣家が滅亡し、徳川に対しての反対勢力がなくなる

こうして、徳川家が支配する江戸時代、約260年がスタートしました

江戸幕府のしくみ

覚えておく語句は、大老、老中、京都所司代、大阪城代、町奉行、勘定奉行ぐらいは仕事内容とともに覚えておきましょう

幕府と藩(幕藩体制)

幕府とは将軍が親分となって仕切っている軍事組織です

藩とは将軍から与えられる大名の領地と支配の仕組みです

幕府と藩による支配の仕組みだから幕藩体制といいます

ここでいくつかの言葉が出てきています

大名とは、1万石以上の領地を与えられた武士を言います

そんな大名には種類があります

親藩・・・御三家(尾張、紀伊、水戸)など、徳川一門

譜代大名・・・関ケ原の戦い以前からの家来で主に関東や近畿地方に多いです

外様大名・・・関ケ原の戦い以後、家来になった大名を言います。東北や九州など、江戸から遠いところに外様大名は多くいます

豊臣秀吉のころは、天皇の代理で統治権を持つ秀吉が、統治権を各大名に委任するという形をとっていた。

簡単に言うと、親分が秀吉で各地の大名に支配してていいよと許可を与えていた

しかし、家康が実権を握るとすこし違う形になる

大名との関係は基本的には上下関係で、封建的な(鎌倉時代と同じような支配の仕組み)かたちであった。だが、主人と家臣というより契約的な関係で、分権的な体制の国家となっていった

この幕府と藩による支配の仕組みが幕藩体制です

わかりやすく言うと、今のアメリカのような形。

アメリカには州というまとまりがある。その州ではその州独自の法律があったりする。でも大統領がアメリカのリーダーである

日本は都道府県でリーダーシップをとるのは首相だが、日本全国どの都道府県でも同じ法律同じ決まりが基本的にはある(条例などは都道府県オリジナルもありますが)

大統領が将軍で、藩の大名が州知事みたいな感じで考えてくれたらいいです

だけど、どの地域でも守らなければならない基本的な決まりごとは作っておくべきです

きまり

武家諸法度

1615年に出された法令で、大名が守るルール。違反すると国替えや領地の没収が行われた

例えば、勝手に城を修理したり作ったりしてはいけないというのがルールです。城は力の象徴、だから、武力が強くなる可能性は天下泰平の江戸時代には必要ないし、幕府に逆らう勢力にならないように城を強化することは禁じられていました

そのほか結婚に関しても、有力大名と有力大名が結婚し仲良くなってしまうと勢力が拡大してしまいます。なので勝手に結婚はしてはいけません

参勤交代もあります。これは、豊臣時代もあったのですが、不定期で行われ、多額の出費がいきなりかかるので大名も困っていました。

江戸幕府は、参勤交代を定期的にすることで、大名に旅費を多額に出させることで、勢力の拡大を抑えています

そのほかお手伝い普請といって、橋や城の修理などを各大名に負担させることで、お金を蓄えないようにさせていました

参勤交代で見られたのが大名行列。遠ければ遠いほどお金はかかるから、良い領地を遠くの大名には与えて黙らせるのと同時に、遠くに居させることで政治の世界に参加させないようにしていました

石高表

禁中並公家諸法度

天皇家や公家は儀式や学問を行い、政治には口出ししないようにとの決まりです

このように、仕組みを整え、関係を整え、法律を整え、世襲化し、反対勢力を排除することによってゆるぎない地盤を築いていったのが徳川家康です

問題

頻出問題①

1600年に徳川家康方の東軍と石田三成らの西軍とが争った戦いを何というか答えなさい

答えhttp://teacherceo-masajirusi.com/2020/01/14/post-1398/

頻出問題②

1615年に出された法令で、以後何度か改定はされているが、各大名が守るべき決まりを定めたもので、城の増築や改修、大名間の結婚の決まりや参勤交代などを定めた法令を何というか

答えhttp://teacherceo-masajirusi.com/2020/01/14/post-1401/

頻出問題③

江戸幕府において、臨時に置かれる最高職を何というか以下から答えなさい

【 大老  老中  町奉行 京都所司代 】

答えhttp://teacherceo-masajirusi.com/2020/01/14/post-1404/

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