明日から使いたい授業の小話5【日本の旧石器時代と明石原人・縄文時代・弥生時代と徐福伝説】

授業づくり

こんにちは

てぃーちゃーMです

【テーマ】:日本の大昔の小話【日本の旧石器時代と明石原人・縄文時代・弥生時代と徐福伝説】

まずは授業に必要なキーワードです

日本の旧石器時代・・・大陸から大型動物を追いかけて移住。

岩宿遺跡~群馬県で相沢忠洋、関東ロームから打製石器

野尻湖~長野県、大型動物の骨

海面上昇により日本列島の形成

日本の新石器時代

縄文時代は新石器時代

竪穴住居で定住生活(例:青森県の三内丸山遺跡)

貝塚、狩り、漁、採集、栽培、縄文土器、磨製石器、土偶

弥生時代

大陸から広まる稲作、水田、竪穴住居の集落

弥生土器(うすくて固い)

銅剣や銅鐸など、青銅器、鉄器の使用

遺跡~登呂遺跡(静岡県)。吉野ケ里遺跡(佐賀県)など

邪馬台国、卑弥呼、金印「親魏倭王」(魏志倭人伝より)、、、30国を支配、、、

日本列島の多様な文化~

本州:弥生文化で稲作。北海道や北部:続縄文文化。沖縄:貝塚文化(漁と稲作)

そもそも日本の始まりは?(明石原人?)

以前人類の進化を簡単に紹介しましたが

ヒトという種類は「ある種のサル」から進化しています

(参考:▲てぃーちゃーMの社会科 歴史 「人類の発生」▲

その原型とされているのが「猿人」で、400万年前ぐらいからアフリカで現れましたがそのうち絶滅します

そのあと、出てくるのが「原人」で、80万年前ぐらいから出てきて、現在でも、北京原人やジャワ原人で知っているでしょう

現在はあまり使われませんが、昔は中学校で教えていたのが「旧人」で、15万年前ぐらいから

そして私たちに続く「新人」は3万年前ぐらいから出現しています

それぞれが違う種類で人類は「新人」のルーツになります。ちなみに、新人・旧人・原人など人類はほかの人類の種を倒して食べたりもしていたようです

ここで、日本人のルーツはどこにあるのかという事を紹介します

あなたはご存じでしょうか?

兵庫県の明石市を

明石と言えば、明石焼きや明石海峡大橋、日本の標準時子午線が通っている都市ですね

その、兵庫県明石市郊外の海岸で見つかったとされるのが「明石原人(明石人)」の骨

ですが、少しややこしいのですが、発見者はアマチュアの考古学者だったため発見した人骨は大学で、写真を撮られ、石膏で型は取られたのですが、精密には調査がされていませんでした

そんな中始まったのが太平洋戦争です。この戦争で人骨を持っていた人の家が焼けてしまい人骨が消失。証拠が亡くなったというわけです

ですが、戦後の東大で教授が写真を発見します。そして石膏を詳しく調べると、原人のものであると結論付けました

これが明石原人と言われるきっかけです(正式には、ニッポナントロプス・アカシエンシス)

ちなみにそもそもの発見者は「直良信夫(なおらのぶお)」さん

この東大教授の再認識により調査が行われることになりますが、この発見者の直良さんは正式には調査に呼ばれませんでした

なので大学の調査隊は、発見場所とは違った場所を調査したため何も出土せず、約13億円かけた調査は失敗に終わります

その後1982年に再度石膏を調査すると、原人ではなくもう少し新しい人類の骨格だとされました

同時に、周辺の発掘調査により、人工的に加工された木片が見つかり、時代を測定すると6万年~3万年前のものという結果が出ました

なので現在は「明石人」と呼ばれていますが、現物がなくなっているので正確なことは言えませんが、日本にも旧人がいた可能性が出てきたが、他の場所では旧人の化石は発見されていないので何とも言えない

日本の土壌は酸性が強いので骨が残りにくいのでそもそも骨が残りにくいためである

でも、新人は港川人(沖縄)や牛川人(愛知)は発見されている。これらは2万年前ぐらいの新人とされている

ですが、それらはあくまでも骨に関して

それ以外の証拠からも人類の生活は確認できます

1948年の戦後に、長野県で住民が偶然発見したのが「象の歯」それがナウマンゾウの歯でした

ナウマンゾウとは、65万年 – 42万年前~約2万年前から約1万5000年前頃まで生息していた象で発見されたのがそれ以外にも、オオツノジカの角もありました

そして、そこには石器もありました

という事は、少なくとも、1万5千年まえぐらいには人類がそこで大型動物の狩りをして暮らしていたという証拠になります(あくまでも可能性ですが)

そこでは、大型動物以外にもイノシシや野ウサギなどの化石も発見されています

基本1万何千年前までは氷河期で海面も下がっていて、日本もほとんどが陸続き、氷で陸地がつながっていたと考えられています。大型の動物も大陸から広範囲に生息、移動していたという事で、人類もそれを追って生活していたという事です

それ以外にも有名なのが岩宿遺跡ですね

関東ロームという縄文時代よりも古い地層で、そこから石器が発見されました

発見者は相沢忠洋(あいざわただひろ)。黒曜石の石器と石片を発見します

この石器が3万年前のものと推定されたことから縄文時代以前に人類が日本にいたことを証明しています

(参考:▲てぃーちゃーMの社会科 歴史 「日本の古代・旧石器時代」▲

ちなみに、旧石器時代と言いますが、土器のない時代ということで「無土器時代」とも言います

これが日本の始まりで、日本の旧石器時代ということです

新石器時代は縄文時代

縄文時代のはじまりです

色々なスタートがありますが大体が紀元前1万4千年前(1万6千年前)から紀元前3000年(~紀元前何百年)ごろまでで

ちなみに弥生時代は紀元前1000年ぐらいから紀元後の300年=(紀元後!です気を付けて)3世紀ごろまでとされています

新石器時代という事は石器の加工がおこなわれていた時代、そして縄文時代という事は土器を使っていた時代という事

新しい石器と土器の使用が人類の生活を大きく変えています

それまでの生活で大切だったものは何か?

それは動物の肉です

動物の肉を食べるというのがそれまでの時代(旧石器時代)の基本です

もちろんそれ以外の木の実なども食べていましたがまだ種類は少ないです

旧石器時代は基本移住生活ですがそれが新石器時代になって変化します

気候変動による大型動物の減少もありますが、暖かくなることで植物の分布が広がります

という事は、木の実が増えたという事

でも、木の実や植物(現在で考えるなら野菜)は旬があります

旬とは取れる時期という事

人々は移動して暮らす狩り中心の生活から、季節により食べ物を変え、小動物を狩り、食べることの難しい植物を加工して食べて、その地で暮らしていくようになっていったのです

食べることの難しい植物とはどういうことかというと、ドングリにはタンニンが多く含まれているので食べにくい(渋みがとても強い)です、トチの実にはサポニンとかアロインなどが含まれています

ちなみにトチの実のあく抜きの方法は、栃餅(とちもち)作りでわかります

  • 天日干しをしたトチの実を熱湯で戻す作業を3日間
  • 殻を割って水に浸して(水は毎日交換)を3日間
  • 最後に木灰の灰汁(あく)に漬けて渋みを抜きます

ちなみに沖縄そばを作るときも、木灰の灰汁の上澄みを使います(現在はかんすいを使うところも多いですが)

こうやって植物を食べる機会が大幅に増えます

それまでは、水たまりに焼いた石などをいれて煮物などを作っていたのが、土器利用することで使いやすくなったという事です

こういった場面で土器が活躍したのです

同時に植物だけではありません

石器の銛(モリ)や、貝塚にある動物の骨から人類がイルカやクジラを捕っていたとわかっています

動物を捕る理由は、肉と油

油はいつの時代も重宝されます。縄文時代は灯りや化粧用に使われたようです

イルカやクジラを捕っていたという事は集団的な生活や協力がなされた証拠、なぜなら、海の大型の生き物を個人で取るのは難しいからです。おそらく湾内に追い込んで漁がなされたのでしょう

その油を入れておくためにも入れ物は必要でした

だから、土器が利用されるようになったことは、気候や生活が変化したこと、食生活を豊かにすることという事で作られ使われていくようになった

これこそ文化

しかも、縄文人は江戸時代の人と比べると非常に健康状態が良かったです

化石からの歯の状態でそれはわかるようです

江戸時代は脚気(かっけ)と呼ばれる歩けなくなり最終的に死んでしまう病気が流行りました(結局はビタミン不足が原因ですが)。だから、ビタミン不足解消のために、ソバを食べるようになります。そういったことから、関東はうどん文化ではなく蕎麦文化がありますが、きっかけは脚気です

日露戦争時も脚気が流行ります。こういったころから海軍では栄養のある食事をとらせるようになり、スープ(シチュー)が食べられるのですが、スープは船の上ではこぼれる。だからとろみをつけて食べだした。それにカレー粉を使うようになりカレーが海軍では食べられるようになる

(参考:▲てぃーちゃーMの社会科 歴史 「日露戦争」▲

現在でも、日本の自衛隊では金曜日の昼にカレーが献立で登場するが、これは海に出たときの曜日の確認がメインです

弥生時代と徐福

ここまで旧石器時代と縄文時代とを紹介しましたが、一つ、縄文文化は東日本に多くの遺跡があります

という事は西日本より東日本の方が人が多かった。(実際、山内清男という考古学者がデータを出しています)

ですが、米文化はどうかというと

東日本より西日本の方が稲作文化がさかんだったということがあります

ここで考えられることが、稲作は西日本から広まっていっただろうという事です

この稲作の広がりと関係のあるのが中国

この当時中国は秦の始皇帝によって支配されていました

この始皇帝は以前説明しましたが「不老不死」を願っていました

(参考:▲てぃーちゃーMの社会科 小話 「中国の昔」▲

この「不老不死」の薬を探してこいと言われたのが徐福という人物(司馬遷の史記に載っている内容)

日本各地には徐福伝説と言うものが存在します

秦(はた)という名字の人がいますが、これらの名前はそもそも徐福伝説から来ています

中国の始皇帝は秦(しん)という王朝をたてたが、秦(シン)と書いて秦(はた)ですから大いに考えられます

また、いきなり日本で稲作が広まるのも不可解ですが、史記には、徐福という人物は「五穀の種」を持って行ったとされています。そして、「童の男女3千人」と「百工」も、とあります

という事は、人数とタネとモノづくりの技術者を船に乗せて旅立ったという事

そして、だいぶ前なのですが、ベトナム難民が中国からの密航船で流れ着いたのが有明海

この有明海の奥には徐福伝説があります(盃を浮かせて流れ着いたところに上陸しようとした徐福。この話で、有明海の奥のこの地名は浮く盃と書いて「浮盃(ぶばい)」という地名です)

船が流れ着きやすい地域なわけです

そして、そこから少し内陸に入るとあるのが弥生時代最大級の遺跡「吉野ケ里遺跡」です

話は変わりますが、主食が米へと変化していったのはこの時代

この時代から始まったのが戦争

それまでも何らかの狩りの道具によって亡くなったと考えられる人骨はあったがそれは事故死的なものでした

ですが、弥生時代から明らかに戦死者の人骨が出てくるようになった

米とともに、銅や鉄が使われるようにもなり、米の生産は集団の労働力を必要とする

これらが、本当に幸せをもたらしたかはわからないが、弥生時代は、長く見ても続いたのが、紀元前1000年から紀元後300年なので1300年程度と考えていいだろう

縄文時代はどうだろうか?

縄文時代は紀元前1万4千年前から紀元前3000年としても約1万年続いています

長く続くから幸せとは限らないかもしれませんが

最後に「平和」という言葉の定義を紹介します

平和とは戦争のない状態を言います

まとめ

今回は日本の大昔ということで

旧石器時代と新石器時代の縄文時代と弥生時代を紹介しました

参考になれば幸いです

私も少しでも学生の勉強の足しになればと

授業の記事・動画をまとめていますので参考にしてください

▶【てぃーちゃーMの社会科】授業ブログ「やさしい社会科授業」

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