こんにちは
来年の採用試験合格に向けて勉強中のヤマシロです
今回は
社会科で必要な歴史の住居・建物・建築様式
を紹介します
歴史に沿ってみる住居・建物
縄文時代・弥生時代
竪穴住居(たてあなじゅうきょ)と呼ばれる家に住んでいました。
縄文時代(新石器時代)以前の旧石器時代の日本の人々は住居というものはなく、洞窟や台地上に住んでいました。
氷河期が終わり地球が温暖になるにつれ定住していったと考えられている
竪穴住居とは、地面に深さ50cmくらいの円形や四角形の大きな穴を掘り、4本から7本の柱を立て、その上に屋根をつくった住居です。
屋根の上に土や葦(アシ)・茅(カヤ)などの植物を葺いた土屋根住居や葦・茅葺屋根の住居と考えられます。
住居の床には硬く叩きしめた粘土を敷きつめ、住居の中心には料理や暖房などに使うための石で囲んだ炉がつくられる。
これまで、日本全国でたくさん(その数9万超)の縄文遺跡が発掘・調査され、1000を超える住居跡が見つかっている
食べ物を探しながら、仲間と共に移動し、狩りや漁に都合のよい、海や川に近い台地を見つけると、そこに集落を作って住みついたと考えられている
建物というくくりでいうと
- 地面に穴を掘り茅や葦の屋根で、中央に炉が設置された「床座」と言われる土の上で暮らす形式の「竪穴住居」
- 掘立柱(ほったてばしら)とよばれる柱を立て、地面より高い位置に床を作ることで防寒や食料保存に特化した「高床倉庫(高床建築)」
- 掘立柱の穴が比較的浅く、壁もあるが地面で暮らす「平地住居」
この3種類があったとされています。
なかでも高床倉庫は祭祀殿としても利用されていたようで、中心的な集落には大きい高床倉庫があり、高さのある建物を神聖視したり、穀物は信仰の対象になっていることもあり、後に神社の建築様式の一つである「神明造」の原型となったりしています
高床倉庫は住居としてはほとんど利用されず、一般住居は竪穴住居から平地住居へと変化していく。
古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代初期
古墳時代の住居も地面を掘り窪(くぼ)めて造った竪穴住居
古墳時代になると竪穴住居にカマドを設置することが一般化します
でも、古墳時代後期から五~六世紀頃を境に家の中央にあった炉の位置が変わり
ほとんどの地域で壁にカマドが取り付けられるようになった。
豪族(ごうぞく)などの身分の高い人の住居は、複雑な柱の組み合わせでできた建物が連なっている。
また、建物によって、台所、馬屋、主人のすむ正殿(せいでん)、従者(じゅうしゃ)の住む家などとその役割が違っていた。
東西120m、南北103mのほぼ正方形の広いしき地に住んでいる。
このころ、仏教が日本に伝わり(538年と言われている説が有力)、複雑な柱の組み合わせからできる塔(とう)なども建設できるようになっていき、屋根に瓦(かわら)を用いるようになった。
飛鳥時代・奈良時代
飛鳥時代も奈良時代も、一般的な農民は、縄文時代から続く竪穴住居に暮らす。
でも、縄文時代のものと比べると構造にだいぶ違いがあり、外側の壁には板が張られているものもある。かまどでは土師器のカメも使われていたようです。(白河市の谷地前C遺跡など)
飛鳥・奈良時代の儀式に使う建築物には屋根に瓦葺が使用される。
同時期に貴族の住居は今までより広く作るために、部屋の中央に「母屋」、母屋よりも一段低く「庇(ひさし)」を不随させて空間を広く作る方法が定着していく
庇付きの建物は寺院であったとも考えられています。後の「寝殿造り」のルーツとなりました。
平安時代
平安京内は家ですが、地方の田舎ではまだ「竪穴式住居」
しかし、平安時代後期になると、竪穴式住居の姿は消えていき、平安京の庶民と同じように、長屋での生活に変わっていったのです。
庶民が住んでいた建物は、「長屋」(町屋)と「竪穴式住居」の2種類
平安京に住む庶民達は、「持ち家」を持っている人はほとんどおらず、多くが部屋を仕切った「長屋」に住む生活だったと言われています。室内はあまり広くなく、半分は土間、もう半分は床を張るという内装が一般的でした。
平安京のような都市では商家の建築が生み出され、そこでは土間より高くつくられる床が登場します。
いわゆる町家とされるその店舗併用住宅では、簡素な空間ながら、その半分の空間を一段高い板張りの床にしています。
現代の京町家でも、「おくどさん」と呼ばれる釡の置かれた煮炊きをする部分(通り庭)は、土間のままです。日本人は、土間と、そこから一段高くした床を生活のスタイルに合わせて使い分けてきたのです。
貴族の屋敷「寝殿造り」
平安時代の建物には「寝殿造り」といわれる建築方法を取り入れた屋敷が誕生します。
住まいは経済力の象徴
寝殿造りは貴族の住居
地方の人々は竪穴住居
平城京内の人々は身分に応じて支給される平地住居
寝殿造りは屋敷の「寝殿」と左右対称に配置された「対殿」を長い廊下で繋いだ「コ」の字型の形状が特徴
平等院鳳凰堂も寝殿造りであることで知られており、
寝殿造りの間取りには壁がありません
仕切りには屏風(びょうぶ)やすだれ等が使われました
次第に仕切りで部屋を分けるようになり畳もしかれるようになりました
京極殿(土御門殿(つちみかどどの))
藤原道長の主要邸宅
神社建築
寺社建築も床を高く張ることは共通しており、古代(奈良時代~平安時代)の出雲大社は、最近の発掘調査で50m近い高さがあったとされている
その他の寺院建築も日本で発達したと思われる様式では、高く張った床がとくちょうとしてある
中世以降に中国(宋)から移入された禅宗様の寺院建築では、高い床ではなく瓦敷で仕上げる様式になっている。日本で特徴的な寺院の様式である和様では、床は板敷きで高く張られています。
歴史の中で日本風に変化していく建築様式もあるということ
鎌倉時代
庶民(農民など)は、貴族が持っていた「荘園」に住む
武士は貴族の土地(荘園)や主を守る役割
庶民はその土地での農作業をするため畑や田んぼ(荘園)の周辺に暮らす
農民たちの住居は「竪穴式住居」など
また鎌倉時代には「方形竪穴式住居(ほうけいたてあなしきじゅうきょ)」も使われていたとされています。(鎌倉時代特有)
昔の竪穴式住居は、円形ですが
方形竪穴式住居は長方形もしくは正方形に掘られている
その他の住居として、土台や基礎の無い、柱を直接土に建てた「掘立て小屋」で地面に筵(むしろ)を敷いて暮らす
農民達の暮らし・・・年貢は貴族と武士へ二重払い、屋敷の修繕、大工仕事、戦などで厳しく貧しい
平安時代が、貴族中心の、生活に優雅な豊かさを求めた寝殿造の建物
鎌倉時代は、武士中心の、見た目よりも実用性を重視し、寝殿造を簡素化した、敵からの襲撃に備える「武家屋敷」
武家屋敷
敵が見つけやすい丘の上に建てる
屋敷の周囲に堀や竹垣
建物の屋根は板葺きで切妻(きりづま)(/\な形)
棟は寝殿造のような廊下ではなく、ひとつひとつ離して建てる
建物内の床は「板敷」
座る場所に「畳」を敷く
部屋の仕切りに、「ふすま障子」や「唐紙障子」など
「馬屋」と呼ばれる馬小屋(戦用)
寺院の建築様式
鎌倉時代の寺院の建物で覚えるのは5種類
- 平安時代からの伝統的「和様」
- 宋に行った事のある重源(ちょうげん)(浄土宗の僧)が伝えた宋(中国)の建築様式「大仏様」
- 禅宗の「禅宗様」
- 大仏様と禅宗様をあわせた「折衷様」
- 和様メインの大仏様の特徴「新和様」
和様建築
もともと中国から伝来した寺院の建築技法を、平安時代に日本の気候や趣向(国風文化)に合わせて発展した伝統的な建築様式
密教寺院などで用いられていたが、後に建築様式の折衷化がすすむ
平等院鳳凰堂、金剛峯寺不動堂、延暦寺根本中堂など
柱は太く、天井は低め
主な特徴は、柱を水平につなげる「長押」(なげし)
床を張り、「縁側」を作る
など。代表的な和様建築に、「平等院鳳凰堂」や「金剛峯寺不動堂」、「当麻寺本堂」があります。
大仏様建築
大仏様=天竺様(昔の呼び方)
浄土宗の僧「重源」によって伝えられた建築様式
主に中国の南宋で取り入れられていた建築様式
東大寺南大門など
野屋根(二重の屋根の間で勾配(斜め具合)を調整した屋根)
天井がなく屋根裏が見える
柱を水平方向に支える「貫」(ぬき)
柱に挿す「挿し肘木」(さしひじき)
木材が多く使われるが耐久性はある
建物の構造が見えるようなデザイン
大仏様は、1181年の平氏(平重衡(たいらのしげひら))による南都焼き討ち後に、東大寺大仏殿を再建する際にも用いられる
禅宗様建築
禅宗とともに日本に伝わってきた中国(宋)の建築様式
別名「唐様」(からよう)
円覚寺舎利殿、功山寺仏殿(山口県下関)
主な特徴として
南北を基軸にした東西対称(例外あり)
間仕切りのない一室堂
屋根が反っている
柱を水平方向に支える「貫」(ぬき)を多用
柱は円柱
床を張らず土間
折衷様建築(せっちゅうようけんちく)
和様をベースに、大仏様と禅宗様を組み合わせ
瀬戸内海沿岸の地域を中心に増える
代表的な折衷様建築
「鶴林寺本堂」兵庫県
「明王院本堂」
「太山寺本堂」
新和様建築(しんわようけんちく)
新和様は、和様を基本に大仏様を導入した建築様式
構造面の強化と意匠を加えた建築
代表的な新和様建築
「平等院観音堂」
「薬師寺東院堂」
「十輪院本堂」
室町時代
室町時代後期
寝殿造りを基に「書院造り」を用いた屋敷
書院造りの書院とは「書斎」という意味
日常生活生活用ではない接客や儀式の場所(美術品や襖絵など)
天井、床の間、飾り棚、角柱、障子、縁側、玄関、襖(ふすま)で部屋を区切る、上座・下座
現代の和室の原型とも言われている
安土桃山時代には書院造は完成
庶民は平屋建て、板葺き屋根など簡素な土間と板の間
畳
日本の敷物。原型の記述が古事記にある
最も古い畳は、「御床畳」(ごしょうのたたみ)(奈良県の「正倉院」にある)
室町時代になると書院造の邸宅では、部屋に畳を敷き詰めた
一般人が畳を利用しだしたのは江戸時代の中期(地方の農村では明治時代)
安土桃山時代
安土桃山時代には書院造は完成
書院造は身分が上層の武士用住居
家臣等は城下に「町家」や「侍屋敷」を立て居住
「城下町」が形成されるようになる。
「侘び・寂び」(わび・さび)の精神を重んじる茶の湯が広まると、「数寄屋造」(すきやづくり)という様式が好まれるようになる
「数寄屋」とは、茶室の意味
「数寄屋造」は、各式ではなく、自然の素材を利用し、竹や杉皮で天井にあしらったり、土壁を用いたりした造り
安土桃山時代には城に書院造が用いられる
織田信長の安土城、豊臣秀吉の大阪城
障壁画、装飾で今まで以上に格質の高い書院造というものが確立
狩野永徳の唐獅子図屏風
江戸時代
江戸時代の一般庶民は「長屋」(火事も多かったので簡単なつくりで壊しやすい)
武士が住む建物「数寄屋風書院建築」
数寄屋風書院建築とは、千利休が造った草庵風の茶室から発展したもの
土壁を用い、柱と柱をつなぐ「長押」(なげし)を無くすなど、格式張らず自由ですっきりしていた(多くの屋敷で使われる)
武士が居住する建物は、身分や禄高(俸禄の額=給料)により、場所、広さ、構造など決められている
「大名屋敷」
将軍直属の家臣、参勤交代で江戸に参勤する大名に対し、幕府が与えた屋敷(借り物)
別名「江戸藩邸」
上屋敷
城の近くに建てられ、大名とその妻子が住む屋敷。
中屋敷
主に隠居した藩主や大名の世継ぎが住む屋敷。
下屋敷
郊外に建てられた大名の別荘。
抱屋敷(かかえやしき)
百姓などから土地を購入した私有地の屋敷。拝領した屋敷が火災に遭ったり、何らかの理由で幕府に屋敷を取り上げられたりした際の屋敷。
蔵屋敷
各藩の米や、特産物の売却用に置かれた倉庫兼販売拠点。
その他
「旗本屋敷」「御家人屋敷」「足軽長屋(新潟県新発田市に現存)」
「町屋敷(庄屋、町屋の住居)」
家屋は、石の上に柱を組み立てる「礎石建物」へ
火災防止のための瓦屋根、塗屋造などの町屋もできる