【教採対策:中学社会】「どっちだったかな?」「誰だった」を無くす一族まとめ

教員採用試験対策

採用試験では人物名を答えさせる問題も出ます

一族ではなく特定の人物なら間違えにくいですが

初代は○○を行い、二代目は△△を行い・・・

と続くと、試験の時に「どっちやったかな?」と悩むこともしばしば

そういった間違いや書き間違いを無くすために

ここで押さえておきましょう

蘇我氏

古墳時代から飛鳥時代にかけて勢力をもった一族

蘇我稲目(そがのいなめ)

排仏論で物部氏(もののべし)と争う、屯倉(みやけ)(ヤマト王権における直轄地)の経営

蘇我馬子(そがのうまこ)

排仏論で物部守屋と争う、姪に推古天皇、飛鳥寺を建てる、推古天皇の甥の聖徳太子(厩戸皇子)を皇太子に立て摂政とする、仏教の奨励、冠位十二階、十七条憲法、中央集権化を進める、聖徳太子から見ると義理の父

蘇我蝦夷(そがのえみし)

蘇我馬子の子、乙巳の変にて自害

蘇我入鹿(そがのいるか)

蘇我蝦夷の子、乙巳の変で討たれる、

藤原氏

飛鳥時代から1200年以上にかけて朝廷内で一大勢力として存在した

藤原鎌足(中臣鎌足)(ふじわらの/なかとみのかまたり)

中大兄皇子とともに乙巳の変にて蘇我入鹿を討つ、大化の改新の中心人物、万葉集より「われはもや安見児得たり皆人の得難にすとふ安見児得たり」(私は安見児(やすみこ)を得た、皆が手に入れられないと言っていたあの安見児を得たのだ)天皇に献上された美女、万葉集より「玉櫛笥みもろの山のさな葛かづらさ寝ずは遂に有りかつましじ」(たまくしげみむろど山のさねかづらさねずはつひにありとみましや)、かつて日本の紙幣の肖像としても使われた(百円札)

藤原道長(ふじわらのみちなが)


望月の歌「この世をば 我が世とぞおもう 望月の 欠けたることも なしとおもえば」
自分の娘を天皇の后にすることで天皇の外戚(天皇の親戚)になり、幼い天皇に変わって政治を行う摂政として力を持つ。天皇が成人すると関白になって天皇の政治を補佐する。(=摂関政治)
親族を朝廷内の役職に就け、他の帰属を排除
なぜ、天皇とのかかわりが強いのか?
藤原氏の始祖は藤原鎌足=中臣鎌足だからです。
後の天智天皇と大化の改新を行った人物の子孫が、代々天皇に仕えているということです

藤原道長(ふじわらのみちなが)と藤原頼通(ふじわらのよりみち)のころ全盛期

婚姻関係
官位の独占
経済力(荘園支配)
地方の支配(国司を任命)
逃亡農民(耕作放棄した農民を使う)
こういったことが中央集権体制の崩れの一因にはなっている

荘園の特権

  • 不輸の権・・・租税を国司に納めなくてよい
  • 不入の権・・・国司の立ち入り禁止

寺社や貴族の私有地として土地が認められていき、農民は班田収授の税を逃れるために、貴族や寺社に土地を管理してもらうようになる

貴族や寺社の土地には特権の効力があるので国司(国の役人)も手が出せない

土地を有力者の土地にすることを寄進するという。もちろん貴族へのお礼も発生してより貴族は儲かる。

藤原頼通(ふじわらのよりみち)

平等院鳳凰堂

藤原道長の息子

摂政、関白、太政大臣

藤原定家(ふじわらのさだいえ/ていか)

平安時代末から鎌倉時代にかけての公家(貴族)歌人

「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」の撰進

小倉百人一首の撰者

平氏

平安時代に創設された氏族

有名な平氏が桓武天皇系列の「桓武平氏」武士の一族

平将門(たいらのまさかど)

平安時代の関東の豪族

平氏一族の抗争が広がるなか、関東地方で国府(国の役所(国司が働く))を襲撃し「新皇」を自称して朝敵(天皇の敵)となるが、承平天慶の乱にて討伐される

承平の年から天慶の年の同時期に起こった2つの反乱だが、東の平将門の乱を平氏軍勢が抑え、西(瀬戸内海)で起こった藤原純友の乱を源氏が抑えたことにより武士である平氏と源氏勢力が進出するきっかけになっている

平清盛

平安時代末期の武将

保元の乱(1156年後白河天皇VS崇徳上皇)で後白河天皇の信頼を得

平治の乱(1160年平清盛VS源義朝)で勝利

武士として初めて太政大臣

日宋貿易による貨幣経済の基礎確立(拠点が大和田泊)

厳島神社の整備

全国に500あまりの荘園と知行国を30あまり持つ(30/66)

後白河法皇へのクーデター(治承三年の政変)で後白河法皇を幽閉したことで多くの反平氏勢力を生み出す

平氏討伐の動きが強まるなか、1181年病に倒れ死去

源氏

平安時代初期に天皇一族から臣籍降下(しんせきこうか)(皇族から臣民になる)したことで生まれた氏

源頼朝(みなもとのよりとも)

父が源義朝(よしとも)。ちちの源義朝は平治の乱で平清盛に敗れる

源頼朝本人は平治の乱の後、伊豆に流され、関東の武士や北条氏とともに平氏打倒をかかげ挙兵し平氏を滅亡させる

源義仲(木曽義仲)や源義経を倒し、諸国に守護と地頭を配し、奥州藤原氏を滅ぼし、後白河法皇が無くなった後、1192年に征夷大将軍に任じられる
鎌倉に幕府を開く
守護地頭制度は全国支配の準備

北条政子と御家人

頼朝の死後に起きた承久の乱で朝廷と幕府が争うと、北条政子は集まった御家人らに対し「故・右大将軍(頼朝)が朝敵を滅ぼし関東を開いて以降、官位も俸禄も、その恩は山より高く海より深い。(中略)恩を知り名を惜しむ人は、早く不忠の讒臣を討ち恩に報いるべし」と述べた。これを聞いた御家人らは、ただ涙を流し報恩を誓った。頼朝の幕府内での位置と、御家人からの高い評価を知ることが出来る。

源頼家

2代目。長男なので「頼朝」の先の文字「頼」がくると考えると間違えない

頼朝の死後(1199年)の将軍なので幕府は「13人の合議制」を敷く(1199年)頼家の慣例を無視した独断などを防ぐため、頼家体制の補完するためと考えられている(吾妻鏡)13人の合議制のメンバーには北条時政もいる

頼家側には比企氏(ひき/比企能員(ひきよしかず))弟の実朝側には北条氏(北条時政)

比企氏に

「北条時政が弟の実朝の権力を強くするため土地をたくさん相続させたから北条時政を討伐しましょう」と言われたとされ、それを北条政子が聞いていた。その後、時政による返り討ちで比企能員一族ともどもやられる。とあるが、後年に編纂されている「吾妻鏡」によるものなので、北条氏にとって都合のいい内容になっている可能性は高い

その後頼家も暗殺される

吾妻鏡・・・初代~6代将軍までの鎌倉幕府の歴史書。北条一族によって編纂されているので内容の信ぴょう性に疑問が残るところはあるが、武家政権最初の記録でもある

源実朝

弟なので「頼朝」の後ろの字をとって「実朝」と考えると初代から3代までの源氏は間違えないで覚えることができる

頼家の将軍追放後12歳で征夷大将軍になる。幼いうちは執権の北条氏が政務を務める。

右大臣に任命された翌年、頼家の息子(甥っ子)である公暁により暗殺される。公暁は実朝の養子(本来は猶子(ゆうし))

実朝暗殺計画を立てたことで北条時政は寺に逃げて、息子の北条義時が執権職を継ぐことになる

実際のところ、北条氏、公暁の乳母方(三浦氏)、後鳥羽上皇、公暁本人誰が計画を立て実行した、させたかはわからないままです。ちなみに実朝暗殺時に腹痛を訴えて北条義時が参列を離れています。

鎌倉幕府は執権の北条氏が力を持っていたが代々将軍は存在した(源氏ではない貴族や天皇家など)か9代守邦親王(もりくにしんのう)まで

北条氏

平直方(平安時代の豪族)を始祖とする説や

桓武平氏(平安時代に創設)を本姓とする説もある

北条時政(ほうじょうときまさ)

初代執権。13人の合議制(1199年)あたりから頭角を現す。三代将軍実朝暗殺未遂事件をおこしたこともあり(その直後に出家)北条一族初代としては評判はあまりよくない

北条義時(ほうじょうよしとき)

2代目執権。北条時政の息子。北条政子の弟。13人の合議制のメンバー。承久の乱(VS後鳥羽上皇)1221年。

承久の乱後朝廷の権力を上回った幕府の役割が拡大し、公家や寺社、非御家人や朝廷の利害関係の調整など武家政権として日本を動かすことになる

北条泰時(ほうじょうやすとき)

3代目執権。北条義時の息子。承久の乱では幕府側の総大将として上洛、入京。六波羅探題北方として朝廷の監視役。

御成敗式目を制定

御成敗式目(ごせいばいしきもく)

1232年制定

武家政権のための法令(武家社会の慣習や道徳が基本)全51条(17条憲法の3倍)

御家人の権利義務や所領相続の規定が多く犯罪関係もある

制定の理由として、承久の乱後の土地相続問題の解決や飢饉や不作などの社会不安から

弟に送った手紙に御成敗式目の必要性が書かれている

多くの裁判事件で同じような訴えでも強い者が勝ち、弱い者が負ける不公平を無くし、身分の高下にかかわらず、えこひいき無く公正な裁判をする基準として作ったのがこの式目である。京都辺りでは『ものも知らぬあずまえびすどもが何を言うか』と笑う人があるかも知れないし、またその規準としてはすでに立派な律令があるではないかと反問されるかもしれない。しかし、田舎では律令の法に通じている者など万人に一人もいないのが実情である。こんな状態なのに律令の規定を適用して処罰したりするのは、まるで獣を罠にかけるようなものだ。この『式目』は漢字も知らぬこうした地方武士のために作られた法律であり、従者は主人に忠を尽くし、子は親に孝をつくすように、人の心の正直を尊び、曲がったのを捨てて、土民が安心して暮らせるように、というごく平凡な『道理』に基づいたものなのだ。

北条時宗(ほうじょうときむね)

8代目執権。5代目執権の北条時頼の息子

元寇までの出来事として、元の国書をもって大宰府に数回使節が来るが、返事はせず、朝廷の作成した返事案も採用せず

「異国警固番役」として九州御家人に警護に当たらせる

元寇の時代の執権

元寇

  • 1274年の文永の役
  • 1281年の弘安の役

元は高麗で造船、遠征の準備をしていたので、高麗の食料や労働者が使われ死者が多く出た。

対馬・壱岐で虐殺をした元軍が博多へやってくる。日本の武士たちが迎え撃つ。

戦い方が有利か不利か(集団VS個人や馬や日本刀のすごさVS毒矢やてつはう(爆弾))は説によって違うし、暴風雨が吹いたかどうかも説によって違う

文永の役は偵察目的だったとする話もある

弘安の役の前にも元の使節が2度来るが2回とも処刑される(北条時宗の戦う決意)

蒙古防塁石塁の準備

関東からの御家人も戦闘に参加

日本の武士の戦い方の変化(集団騎馬戦やゲリラ戦)

元軍は二手に分かれていて後発部隊が主力軍、だけど後発部隊が到着までに約1カ月。その間6月いっぱいを戦場で過ごす元軍

1カ月冷蔵庫無しの船の上で暮らせるでしょうか?

病気やケガをどうしたのでしょうか?

船同士をロープでつなげて固定しています

後発部隊が到着しても元軍側が大変な状況に変わりはないでしょう

そこに7月30日夜台風が北九州を襲ったとあります

元寇を記録した日本の書物が「八幡愚童訓」(日本の武神(八幡神)に関する教科書)なので史実とは異なる可能性が高い。

中国や朝鮮の歴史書にも元寇の記述はある

北条正子(ほうじょうまさこ)

源頼朝の妻で北条時政の娘

承久の乱での言葉

「その恩、既に山岳より高く溟渤(めいぼつ) より深し」(溟渤=広大な海)

「吾妻鏡」より

承久の乱(北条義時VS後鳥羽上皇)

鎌倉幕府3代将軍の源実朝が暗殺されたことで、源氏の直系子孫がいなくなった。北条義時は皇族から将軍を招こうとしたが後鳥羽上皇は拒否、摂関家(藤原氏)より将軍を招くが藤原頼経は当時2歳だったので、北条政子が「尼将軍」として力をふるう

足利氏

足利尊氏

平安時代末期の武将「源義康(みなもとのよしやす)」が下野国(しもつけのくに:現在の栃木県)に住み、足利を称したことが始まり

源義康は源義家の孫。源義家は後三年の役を鎮めた人

足利氏は鎌倉幕府内でも重要な地位にいて、執権である北条氏との血縁関係もある

足利尊氏

室町幕府初代将軍

足利氏は尊氏以外みんな「義」がつくので初代だけ特別な存在として分けて覚えやすい

鎌倉幕府を滅ぼす一役

尊氏は六波羅探題(鎌倉幕府の西国監視機関)を壊滅し、新田義貞は鎌倉を攻め落とす

滅亡後、後醍醐天皇による建武の新政(建武の時期(元号)の新しい政治体制)を進めるが各地で反乱。北条氏びいきだった武士たちを排除したため

北条氏の残党を率いた北条時行(ときゆき)らが起こした中先代の乱を鎮める

その後、朝廷の役割である武士への恩賞を与える(天皇親政で恩恵を受けられていなかった武士たちの不満もピーク)

中先代

(北条氏と足利氏の中間に位置し、一時的にでも鎌倉を支配したため。そして、中先代の乱を境に、後醍醐天皇による建武新政から足利尊氏による室町幕府へ移行したため(建武の乱)ターニングポイントにある)

「湊川の戦い」にて楠木正成、新田義貞を破る

比叡山に逃亡していた後醍醐天皇に対し、「光明天皇」(こうみょうてんのう)へ在位を譲ることを条件に和睦を申し出ます。後醍醐天皇はこの条件を受け入れ、ここに新たな武家政権が確立されることとなりました。

こうして、1338年(暦応元年)に足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、新たな幕府が成立しました

足利義満

室町幕府3代将軍

足利尊氏の孫

南北朝を統一

金閣寺(鹿苑寺)の建立

日明貿易

京都の北小路室町に邸宅を築き幕政の中心としたことから、足利義満や幕府は「室町殿(むろまちどの)」と呼ばれるようになる。「花の御所」として栄華を極める

管領の斯波義将(しばよしゆき)に教育され、そののち細川頼之(ほそかわよりゆき)に支えられたことで管領家の争いのもとにもなっている

北山文化

足利義満の隠居した京都北山の山荘は「北山殿」とよばれ、のちに「金閣」の名でよばれる。

この北山を中心とした文化が北山文化

足利義政

室町幕府8代将軍

銀閣

有力守護大名の対立から応仁の乱を引き起こすことになる

京都の東山山荘を中心に「武家」「公家」「禅僧」らの文化の融合

慈照寺銀閣は東山文化の代表

もともとは僧侶になるため出家させる予定でしたが、将軍後継が決まると「室町殿」とよばれますが、執政は管領が行った

前将軍(父親:足利義教(あしかがよしのり))の圧政と幼少将軍から庶民の社会不安につながり、南朝残党の反乱もあいまって社会不安が広がる。管領家、守護大名らも勢力拡大を図るのでまとまらず。決定打が将軍継承問題。それまで子宝に恵まれなかった足利義政、弟をすでに将軍候補としていたところに息子が生まれる。このことで幕府内で有力守護や管領家でも争いがおこり「応仁の乱」へ

応仁の乱後、守護大名たちは自国をしっかり守ろうと在国化がすすみ戦国の時代を迎えることになる

豊臣家

豊臣秀吉

漢字で書けるように

本能寺の変で討たれた織田信長の後を継ぎ天下統一

  • 中国攻めで毛利輝元と和睦
  • 明智光秀を山崎の戦で破る
  • 柴田勝家を賤ケ岳の戦いで破る
  • 小牧・長久手の戦いで徳川家康を臣従させる
  • 長宗我部元親を破り四国を平定
  • 島津義久を破り九州を平定
  • 後北条氏を破り関東・奥州を平定

関白・太政大臣になる

近世封建社会を築く

封建社会・・・君主の下にいる諸侯たちが土地を領有してその土地の人民を統治する社会・政治制度

太閤検地

石高で計算

京桝を利用

刀狩

バテレン追放令(寺社仏閣の破壊、人身売買などが行われているとして宣教や貿易を禁止した政策。貿易の関係上完全禁止にはできていないし秀吉自身も守っていない)

惣無事令(大名間の私闘の禁止)

豊臣秀頼

三男。淀殿の息子

豊臣秀吉(父)を間違うことは無いが、息子の名前は忘れがち

方広寺鐘銘事件を口実に徳川家康が

大坂の陣(冬と夏)(VS徳川家)大坂城の陥落で自害する

東寺の金堂や北野天満宮社殿などは秀頼の寄進(寄付)により造立

徳川

江戸時代に徳川家康が、松平家康から改姓したことが始まり

江戸時代の改革関係はこちらから
【江戸時代の改革まとめ】

多いので
・何代目か
・名前
・主な取り組み

をまとめました

  • 1徳川家康、初代将軍、関ケ原の戦い、
  • 2徳川秀忠、武家諸法度
  • 3徳川家光、参勤交代、
  • 5徳川綱吉、生類憐みの令、漢字で書けるように、文治主義、儒学
  • 8徳川吉宗、米将軍、目安箱、公事方御定書、上米、足高、
  • 14徳川家茂、公武合体(和宮)
  • 15徳川慶喜、江戸幕府最後の将軍、漢字間違いないように、
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